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鯉の芸術と民芸品 / 滝登り図

登龍門のページでも述べましたが、中国の「後漢書」や「三秦記」を起源として、「鯉が滝を登って竜に変身した」という故事が生まれました。以来、縁起物としての鯉の滝登りは日本の芸術にも大きな影響を与えることとなりました。
 
鯉がメインモチーフとして頻繁に登場するようになったのは、江戸時代の円山応挙(1733年~1795年)以降であると言われています。ここに掲載した応挙の鯉図は、水流と鯉以外は何も描かれておらず、鯉の姿も良く目を凝らさないと見えないほどです。すべてを排除し、シンプルな構成とすることで、むしろ周囲の情景を色々と想像することができる、極めて斬新な絵画と言えます。唯一不思議に思うのは、写実主義で名の通った応挙が、滝の中にありながらもまっすぐに体を伸ばした鯉を描いた点です。少なくとも跳ね上がろうとする鯉ならば尾鰭を使うために体を曲げたほうが自然だと思いますが、あえてそうしなかったのは、鯉の滝登りそのものが非現実的であることに対して、応挙があえて非現実的な鯉をわざと描いたと解釈をするのは私だけでしょうか。
 
葛飾北斎(1760年~1849年)は、いわずと知れた江戸時代の浮世絵師です。北斎の鯉の滝登りは印象派の名にふさわしく、応挙とは全く異なる絵画に仕上がっています。色彩や周辺の風景も重視したことはいうまでもなく、二匹の鯉を描いた点も応挙とは対照的です。北斎のこの絵画は、次に述べる熊斐(ゆうひ)の影響を強く受けているように感じます。
 
熊斐(ゆうひ)(1712年~1772年)は、本名を神代(くましろ)彦之進といい、長崎の中国語通訳の家に生まれました。熊斐という名は中国式の呼称で、花鳥画家である沈南蘋(しんなんぴん)に直接師事した唯一の日本人です。1731年に長崎へ渡来し、その写実的作風で江戸時代画壇に強い影響を与えました。私の想像では、応挙も北斎もこの熊斐 の登龍門図を見た後に自分の作品を描いたものと考えられます。私は滝登り図の中では、この熊斐の作品がもっとも好きです。

円山応挙「鯉図」出典)「水墨画の巨匠 応挙」講談社

葛飾北斎「鯉の滝登り」出典)「is」 79 ポーラ文化研究所

熊斐「登龍門図」出典)「is」 79 ポーラ文化研究所

鯉は絵画にとどまらず、食器のモチーフとしても良く登場してきます。食器においてもやはり縁起物として滝登り図が多用されていますが、いずれも前述の絵画の流れを汲むものが多いようです。ここでは、古伊万里の皿と漆器を紹介しておきます。

「染付鯉の滝登り文皿」 古伊万里 出典) 「古伊万里 小皿・豆皿・小鉢 1000」 講談社

「飯椀」 漆器 出典) 「日本のうつわ」 神埼宣武 河出書房新社

参考文献
1)「水墨画の巨匠 応挙」 安岡章太郎 佐々木丞平 講談社
2)「is」 79 1998 ポーラ文化研究所
3)「古伊万里 小皿・豆皿・小鉢 1000」 講談社
4)「日本のうつわ」 神埼宣武 河出書房新社

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