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文芸・故事・伝説 / 一休和尚

アニメなどでもお馴染みの「一休さん」は、「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」という名で、室町時代である1394年~1481年に実在した禅僧です。鯉にまつわる逸話が伝えられていますので紹介します。
 
一休和尚が12、3歳の頃のお話です。彼はいつも豆腐ばかり与えられていましたが、住職は乾鮭を食べていました。不満に思った一休和尚は言いました。「およそ出家の身は生臭いものを食べてはいけないと聞いていたのに、和尚様はいつも乾鮭を食べておられる。食べていいものなら私も是非いただきたいものです。」
 
住職はけしからんことをいうやつだと思いつつも、一休の気持ちも察して言いました。「そなたはまだ小僧のぶんざいである。乾鮭など食べるとたちまち罰があたりますぞ。」
 
一休は言いました。「おや、それは和尚様のお言葉ながら納得できません。同じ人間なのでありながら、小僧のみに罰があたるのですか。罰があたるのならば和尚様にもあたらないわけがありません。」と切り返しました。
 
住職は、「小僧のくせに生意気なことを言うな。ただだまって食べれば罰もあたるだろうが、私は引導を渡して食べているから罰はあたらぬ。」”引導を渡す”とは、葬儀において僧が死者の迷いを去り悟りを開くように説き聞かせるという意味の仏教用語です。現代では最終宣告をして相手をあきらめさせると言う意味で使っています。つまり住職は、 鮭に説き聞かせてから食べているから大丈夫だと言ったのです。
 
一休は、「おやおやこれは近頃めずらしいことを承りました。和尚様はどのような引導を渡しておられるのですか。」
 
「いよいよけしからん。さらば引導してきかすであろう。」住職は山盛りの乾鮭を捧げると、その乾鮭に対して、「汝、元来枯木の如し、助けんとすれども、生きて再び水中に遊ぶことあたわず。愚僧に服せられて仏具を得よ。喝!」大声で引導を渡したかと思うと、すぐさまその乾鮭を食べてしまいました。
 
翌朝、一休は魚屋に行って大きな鯉を一匹買ってきました。包丁で鯉の首を切ろうとしているところへ住職が現れました。「これ一休、お前は何をしようとしているのだ。昨日も言ったように、乾鮭さえ食えない小僧のぶんざいで、生きのいい鯉を食うとはとんでもない。罰当りめ。」
 
一休は、「私も引導を渡して食べようと思っております。」
 
住職は詰め寄りました。「どういう引導を渡すつもりだ。」
 
一休は左手で鯉をおさえ、右手に包丁をもって斜めにかざすと、「汝、元来生木の如し。助けんとすれば逃げんとす。生きて水中に遊ばんよりは、如かず、愚僧が糞となれ。喝!」住職の引導を利用して、生きのいい鯉を食べることを見事に正当化してしまったのです。
 
住職はすっかり度肝を抜かれて言いました。「さてさて、よい引導ぶりである。3年になるネズミを今年生まれた子猫が捕るとは、こういったことを言うのであろう。一休はただの小僧ではない。末恐ろしいやつじゃ。」
 

参考文献
1)「川の魚」 末広恭雄 ベースボールマガジン社

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