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鯉の歴史と文化 / 日本書紀

日本における鯉の記述の最古の文献として、「日本書紀」が知られています。その内容を紹介する前に、知っているようで知らない「日本書紀」について少し触れておきたいと思います。
 

古事記について

古事記と日本書紀は日本古代史を論ずるうえで双生児のごとく扱われていますので、まずは古事記についてお話しましょう。古事記は第43代の元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて撰録(せんろく)させたもので、712年に完成しました。それまでは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が第40代の天武天皇の勅命によって暗誦した旧辞、帝紀がありましたが間違いの多いものでした。これを改めるとともに文章で書き表したのが古事記です。古事記には「因幡の白兎」「八俣の大蛇(やまたのおろち)」「海幸彦と山幸彦」など昔話として広く国民に親しまれている神話や伝説が納められています。その他に、初代の神武天皇(前660年-前585年)から第33代、推古天皇(592年-628年)までの天皇にまつわる話が記述されています。
 

日本書紀について

一方、日本書紀は現存する日本最古の歴史書です。第40代、天武天皇(673年-686年)が川島皇子(かわしまのみこ)、舎人皇子(とねりのみこ)ら12名に命じて編纂させ、720年に完成しました。古事記と 同様に旧辞書、帝紀をベースとしているため似通った部分が多いのですが、歴史書だけあって古事記に比べ神話、伝説の部分は少なく、天皇の記述は初代の神武天皇から第41代 の持統天皇(686年-697年)までと、古事記よりも多く記述されています。
 

景行天皇と鯉

日本書紀の中で、景行天皇の記述において鯉が登場します。以下に文献より引用して掲載します。(「全現代語訳 日本書紀 上」 宇治谷孟 講談社 p152 巻第七より)

4年(西暦74年)春2月11日、天皇は美濃(みの)においでになった。お側の者がいうのに、「この国に美人がいます。弟姫(おとひめ)といい、容姿端麗で八坂入彦皇子(やさかいりびこのみこ)の女です」と。天皇は自分の妃としたいと思い、弟姫の家に行かれた。弟姫は天皇が来られたときいて、竹林に隠れた。天皇は弟姫を引き出そうと計られて、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉を池に放って、朝夕ご覧になって遊ばれた。あるとき弟姫はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、こっそりとやってきて池を見られた。天皇はそれを引きとめて召された。弟姫が考えるのに、夫婦の道は古も今も同じである。しかしああかこうかと問い質すこともできずに困る。そこで天皇にお願いして、「私の性質は交接のことを望みません。今恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ私の姉が八坂入媛(やさかのいりびめ)といい、顔も良く志も貞潔です。どうぞ後宮に召しいれて下さい」といわれた。天皇は聞きいれられ、八坂入媛をよんで妃とされた。媛は七男六女を生んだ。

 

景行天皇と茨城県稲敷市浮島

巨鯉の名所として有名な霞ヶ浦の和田岬から程近いところに、景行天皇行在所(張宮)遺跡があります。霞ヶ浦釣行の帰りに、この遺跡を訪問してきましたので紹介します。
 
今では道路に小さな看板があるものの、訪れる人もなくひっそりとたたずんだ雰囲気の遺跡です。道路から数十メートルほど奥まったところに遺跡はあります。稲敷市教育委員会の立て看板があり、以下にその内容を要約すると共に、私なりに補足して紹介します。
 
景行天皇が自分の子である日本武尊(たまとたけるのみこと)に東夷征討を命じたのは有名な話です。日本武尊は命を果たし、その帰途で伊勢の能褒野(のぼの)(鈴鹿郡の地名)にて病死しました。これを知った天皇は、日本武尊を追慕するあまり征途の跡を巡幸されました。その途中でこの地(浮島)に張宮を営まれ三十余日滞在されたそうです。この丘を張宮の跡として伝え、地名もお伊勢の台と敬称し今に至っています。
 

景行天皇行在所(張宮)遺跡の看板


看板を左手に見ながら細い数十段の石段をのぼりきったところに、 こんもりと生い茂る木が立っていました。そこから左手に続く小道のすぐ先に、景行天皇行在所遺跡の石碑が木々に隠れるように立っています。二千年近く前に、この小高い丘に滞在された天皇は、いったいどんな気持ちで1ヶ月間を暮らしたのでしょうか。80人の子を持った天皇ですが、その中でも特に大役を命じた日本武尊の死の悲しみはいかばかりだったでしょう。日本書紀の中にもその悲しみの様子が伺われます。

看板を左手に見ながら石段を登っていきます


一方、古事記には東夷征討を命じられた日本武尊の苦しみが描かれています。「天皇は、まったくわたしを死んでしまえばよい、と思っておられるからでしょうか、どうして、西の方の悪い人々を討ちに遣わして、都に帰り上って来てから、まだ幾らも時がたっていないのに、兵士らも下さらないで、こんどはさらに東国十二ヵ国の悪者どもの平定にお遣わしなさるのでしょう。これによって考えますと、やはりわたしなどまったく死んでしまえ、と天皇はお考えになっておられるのです。」
 
石段の上に生い茂る木景行天皇行在所遺跡石碑この記述から「親の心子知らず」があてはまるのか、はたまた荒くれ者だった日本武尊を天皇が危険を感じて自分から遠ざけていたのが真実だったのかは、今では確かめる術はありません。
 
二千年の時を超えて景行天皇とその行在所遺跡が、こうして鯉釣りサイトで語られることになりました。 ひとつのことを深く探求していくと突然様々なことが連鎖してくる時があり面白いものです。

石段の上に生い茂る木

景行天皇行在所遺跡石碑

参考文献
1)「全現代語訳 日本書紀 上」 宇治谷孟 講談社
2)「日本書紀 上」 井上光貞 監訳 中央公論者
3)「古事記(上)(中)」 全訳注 次田真幸 講談社

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