5月5日は「こどもの日」、別名「端午の節句」です。もともとは旧暦の5月5日でしたが、現在でも月日はそのままになっています。端午の節句の風習は中国で起こったもので、邪気をはらって健康を祈願する日とされ、菖蒲酒を飲む風習がありました。
端午の節句といえば現代では「鯉のぼり」を立てるのが慣わしとなっていますが、「馗鐘(しょうき)」の絵を描いたのぼりを立てる場合もあります。「馗鐘」とは中国の唐、玄宗皇帝が病床に伏せた際に夢にでてきた人物で、この後目が覚めると病気が快復していたと伝えられています。皇帝はこの「馗鐘」を邪気をはらう効果があるとして絵師に描かせたのが馗鐘図の始まりだそうです。
「鍾馗図」応挙 1795年
出典)水墨画の巨匠 第十巻 講談社
さて中国の端午の節句はやがて菖蒲の節句として日本に伝わります。江戸時代に入って、菖蒲が尚武(武道を大切にする精神)と同じ読みであることから、武士階級で男児のための節句として定着しました。武家では家紋を印した旗指物(はたさしもの)やのぼりなどを家の前に並べ、健康と出世を祈ったそうです。
江戸後期に入ると、町人階級が5月の空を水に見立て、鯉のぼりを立てる習慣が定着しました。鯉は中国古来から「鯉の滝登り」に象徴されるように出世のシンボルとされていました。男児が鯉のように元気に育ち、出世するようにと願いが込められていました。
現代の鯉のぼりの一般的な構成は、上から回転球、矢車、吹流し、真鯉(黒)、緋鯉(赤)となっていますが、これは比較的最近になってからのようです。
下の絵は、陶芸家バーナード・リーチが1934年に陶芸の町、栃木県益子町を初めて訪れた時に描いた端午の節句です。昭和初期の鯉のぼりを描いたこの作品では、回転球と矢羽根、そして鯉一匹となっています。この絵に添えられた文章を、以下に引用して紹介します。
出典)「バーナード・リーチ展」p43
バーナード・リーチ展実行委員会出版
松の生い茂る小さな丘陵地の間のそこここの窯が火入れされている所に、煙が雲となって立ち登っている。外の芝生に立てられた四十フィートの棒には、長さ二十五フィートのはでな色の木綿でできた鯉がものぐさげに風になびいている。五月五日の男の子の節句を祝うためである。男の子一人につき鯉一匹であり一番年上の子のが一番大きな鯉である。
「端午の節句 益子」 バーナード・リーチ 1934年ところで、この鯉のぼりのルーツも中国のようです。中国の楚の国に屈原(くつげん)という人がいました(紀元前343~278年)。屈原は政治家であると共に詩人でもありました。楚の国の危機を察知して王に進言しますが受け入れられず、将来に絶望して汨羅(べきら)の淵に入水自殺しました。楚の人は屈原を哀れに思って紙の鯉を作ってまつったと伝えられています。江戸時代の町人階級の鯉のぼりもはじめは紙で作ったものだったそうです。
大正時代 のお話をひとつ紹介します。1919年のパリ講和会議の後、当時パリ駐在の松井大使がフランスのクレマンソー首相に鯉のぼりの話をしたところ、大変興味をもたれたので、早速日本から取り寄せて贈呈したそうです。大きさはなんと23mもあり、首相の別荘の庭に立てたところ、新聞で「クレマンソーの旗」といって報道されたそうです。おそらく鯉のぼりがヨーロッパに立てられた最初のエピソードだと思われます。
さて現代に話を戻します。4月から子供の日にかけて、北浦湖畔の農家では豪華絢爛な鯉のぼりを上げます。各家ごとに十数匹の鯉のぼりをなびかせている風景は、見るものを圧倒します。この時期に水郷地帯にお越しの際は、是非ご覧になってください。
参考文献
1)「コイの釣り方」 芳賀故城 金園社
2)「水墨画の巨匠 第十巻」 安岡章太郎、佐々木丞平 講談社
3)「バーナード・リーチ展」 バーナード・リーチ展実行委員会
4)「魚の風土」 末広恭雄 新潮社
5)「つい誰かに話したくなる雑学の本」 日本社 講談社