中国における養鯉の始まりは、約3000年前(紀元前1150年)の殷(いん)の遺跡から発掘された甲骨文字の記録に見られます。当時は魚を河や沼から捕って池に放し養殖していたようですが、特に鯉に関しては養蚕と組み合わせて行われていました。養蚕において不要になるサナギを鯉のエサとして利用したのです。
その後、養魚を本格的にしたのが、春秋時代の越王勾践の忠臣であった范蠡(はんれい)です。范蠡は世界で最も古い養魚に関する著書「養魚経」を執筆しました。その書における養魚の中心は鯉でした。
唐の時代(618年)になり、李淵皇帝は鯉の養殖、釣り、売買、食を一切禁止しました。理由は鯉(リー)は李(リー)に通じるということで、鯉に対する冒涜(ぼうとく)は皇帝に対する冒涜とされたのです。困り果てた民衆は、それまで野生の魚だった草魚、青魚、レンギョなどを飼い始めました。これらの魚を合理的に飼う手段として、現在の中国伝統である施肥混養の養殖技術が誕生したのです。
この施肥混養とは、ひとことで言えば養魚池を立体利用したものです。例えば、鯉の単養では鯉が底棲の生物しか食べないために、その養魚池の生産量は池の底の状態で決まる平面利用といえます。
これに対して施肥混養の立体利用とは以下のようなものです。まず水に肥料を撒いて動物及び植物プランクトンをわかし、これをエサとするレンギョを養殖します。レンギョの中でもハクレンは植物プランクトンを、コクレンは動物プランクトンを摂取しますので、棲み分けが出来ます。さらに池底に棲む貝をエサとして鯉と青魚を養殖し、水草や池の周辺で刈り取った草をエサとして草魚を養殖します。
この中国独自の養魚技術は、近代において科学的に改良され、さらに発展しています。
参考文献
1)「釣り六十年」 西園寺公一 二見書房
2)「魚の社会学」 加福竹一郎 共立出版