南総里見八犬伝は1814年の刊行で28年がかりで完結した、雨月物語と並ぶ江戸時代の代表的な読本です。作者は曲亭馬琴で、途中で失明しながらも口述筆記にて最後までこぎつけたと伝えられています。
この物語は、室町時代の南総里見家の興亡が描かれたもので、神犬八房の気に反応して伏姫(ふせひめ)が生んだ八犬士が登場します。八犬士はそれぞれ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の玉を持っています。里見家に取り付く怨霊の妨害など様々な苦難を乗り越えながら、それぞれに散っていた八犬士が集まってくるというストーリーです。1970年代はじめのころNHKで人形劇として放送しましたので、中学生だった私も欠かさず見ていました。
さてこの物語の冒頭部分において、鯉釣りが重要な場面として登場しますので紹介します。
1.結城の合戦
物語は後花園天皇の時代の永享10年から始まります。京都にいた6代将軍足利義教(よしのり)と、鎌倉にいた足利持氏(もちうじ)が合戦となりました。持氏は攻め立てられ、翌年ついに長男とともに切腹し ましたが、次男と三男は父持氏の家来、下総の国(現在の茨城県)の結城氏朝(うじとも)のもとに落ちのびたのです。
京都側の追っ手の大群がやがて結城城に迫ると、それを聞いた里見季基(すえとも)ら恩顧のあった武士が次々と集まり結城側となって戦いました。やがて篭城作戦をとる事になったのですが3年の長きに及び、ついに孤立無援となってしまいました。
ある日ついに結城城は一の木戸、二の木戸と次々に破られ、陥落していったのです。これが「結城の合戦」です。
落城間際の一戦の中で、里見季基は長男で19歳になった里見義実(よしざね)を戦場から逃がしたのでした。義実は父と共に討ち死にの覚悟で戦っていましたが、父の激しい説得に従いその場を離れる決心をしたのです。ちなみに義実は、この物語の主人公である伏姫 (ふせひめ)の父です。
2.館山の安西景連
炎につつまれた結城の城を背に里見義実は、老臣である氏元(うじもと)、貞行(さだゆき)を伴って安房(あわ)の国(現在の千葉県南部)をめざしました。安房についた義実は館山城主、安西景連(かげつら)に面会を申し入れました。
里見家と縁もよしみもない景連は一瞬面会をためらったものの、一度は会ってみて、もし役にたちそうなら下に使うつもりで対面しました。景連が「我が陣に加わって欲しい」と言うと、義実はそこにとどまることにしました。
さらに景連が言うには、「安西家では出陣の際には軍神に鯉を備えることになっている。3日のうちに貴殿みずから鯉を釣り上げて来られよ。約束を守れなかった場合は和議の意志がないものとみて容赦なく処置する。」義実は「心得ました。鯉をとらえてきます。」と気軽に承知した。
3.義実の鯉釣り
実は安西景連の命令はすこぶる難題だったのです。安房一帯はどこへ行っても鯉がいない土地柄だったのです。景連はそれを見越して申し付け、約束を果たさない義実の首をはねようという悪辣な魂胆でした。
そうとは知らない義実は毎日川に足を運び、朝から晩まで糸を垂れ竿を握りました。他の魚はいくらでも釣れるのですが、3日経っても鯉はかかりません。気を落としている義実に、一人の乞食風の者が近寄ってきて、この土地には鯉はいないことを伝えました。
義実ははじめて景連の魂胆が読めたのでした。そしてこの乞食風の者は、実はかつて安房の滝田の城主に使えていた金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)というものでした。淫婦の玉梓(たまずさ)の色香と酒に溺れ、政治は手がつけられな状態に陥ってしまった滝田に見切りを付けた孝吉は、里見義見とともに安房の国を平和に戻したいと迫りました。義実は暫く考えた末、一緒に旗揚げしていく決心をしたのでした。
里見義実が氏元と貞行を伴い鯉釣りをする場面
出典)「南総里見八犬伝」 濱田啓介校訂 新潮社 p86-87
以上が物語りの冒頭の部分です。ちなみに淫婦の玉梓(たまずさ)は後に里見家に災いをもたらす怨霊となって物語にしばしば登場します。この後の物語の詳細については割愛しますので、興味のある方は是非一度読んでみてください。
参考文献
1)「南総里見八犬伝」 白井喬二訳 河出書房新社
2)「南総里見八犬伝」 曲亭馬琴 濱田啓介校訂 新潮社
3)「釣魚をめぐる博物誌」 長辻象平 角川書店