ヒストリー / AB Urfabriken (ABU) の誕生
ハルダの倒産によって、カール・オーガスト・ボーストローム(Carl August Borgstrom)は職を失い、この先何をすべきか来る日も来る日も一人で考えていました。その結果「時計製造機器とパーツを購入して、また時計作りをしよう!」と決心したのです。
その後のカールは、銀行や友人、知人から可能な限り借金をして資金作りを行い、懐中時計製造を再興することに奔走しました。古い教会跡を格安で購入して新工場を立ち上げ、カールとともにハルダを解雇された彼の息子のイエテと数人の従業員を雇い入れ、1921年スヴァングスタの地に「AB Urfabriken」が誕生しました。後に社名は「ABU」とされました。
「AB」の意味は、現在二通りの説があります。ひとつは「株式会社」であり、もうひとつは「August Borgstrom」の頭文字です。さらに「Urfabriken」は時計製造業者という意味ですから、「時計製造株式会社」と、「オーガスト・ボーストローム時計製造」の説があるということになります。どちらが本当であるかは、カールの孫にあたるレナートの著書においても記述されていませんので、ここではこれ以上の言及はやめておきます。
ABUは創業当時流行していた腕時計の生産や電話の通話時間計の生産の傍ら、新型タクシーメーターの開発を手掛けました。開発においては、ハルダ時代から設計を行っていたカールが、息子のイエテと一緒に仕事をしました。わずか14歳でハルダで働きだしたイエテは、ABUにおいて偉大なる指導者であり、かつ父であるカールから、技術と製造実務を学び、タクシーメーターに関するすべてを吸収しました。
1926年、新型タクシーメーターは「Record」という商品名で発売されました。しかし、タクシーメーターの分野は競業メーカーで、ABUの母体でもあるハルダブランドが当時よく知られていたこともあり、「Record」の売り上げは今ひとつ伸び悩んでいたようです。
1929年、イエテは同じ町に住むリーセンと結婚し、2年後の1931年に長男が誕生しました。この子がABU3代目社長のレナートです。
そして1934年、ABU創業者のカールは63歳でこの世を去ってしまいました。
競業メーカーはさらに小型のタクシーメーターを販売し出したため、会社の経営を引き継いだイエテは、当時世界最小のタクシーメーターを自らの手で設計しました。これはタクシーのダッシュボードにマウント可能なサイズまで小型化したものだったのです。ところが、部品点数が約800点もあり、非常にコストの高いタクシーメーターになってしまいました。このままでは売上が伸びないと考えたイエテは、毎晩毎晩、そして週末も費やして新メーターのコンポーネント試作を繰り返し、1939年、ついに完成を迎えました。
ところが、不幸にもこの年に第二次世界大戦が勃発。スェーデンでは自動車の輸入やタクシーメーターの輸出が途絶え、このビジネスは完全に終わってしまいました。