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鯉の歴史と文化 / 錦鯉の歴史

錦鯉は日本で生まれた鑑賞用の鯉です。英語圏では食用鯉や野生鯉を「Carp」と呼び、鑑賞用鯉、つまり錦鯉を日本名のまま「Koi」と呼んでいます。今や「Koi」は世界に通じる名称となっています。このページでは錦鯉の始まりについて、時代背景を交えながら解説していくことにします。
 

天明の大飢饉

江戸時代に四度の大飢饉が起こっていますが、その中でも特に被害が大きかったのが天明の大飢饉(1782年-1788年)です。1782年7月、群馬県の浅間山が大噴火し 、その降灰により広範囲で農作物が打撃を受けました。さらに被害はこれに止まらず、灰が大気圏に拡散することで日照時間の低下の影響が数年間続いたと考えられています。続いて1785年、1786年には東北から関東において冷害、洪水が起こり、1787年の大飢饉を引き起こしました。こうした自然災害に加え、幕府の厳しい年貢の取立てが重なり、津軽藩では特に多数の死者が出たそうです。この時代の庶民の悲惨な飢餓状況については、皆さんも色々な機会に見たり聞いたりしたことがあるかと思います。
 

越後の国の養殖

日本での鯉の養殖は奈良時代にはすでに行われていたと考えられますが、越後の国(今の新潟県)においても天明の飢饉以前から鯉の養殖が行われていました。山古志村は山間部に位置し、冬になると交通が閉ざされる豪雪地帯です。山間の田に水を入れるための大小の用水池を築いていましたが、やがてこの用水池で鯉を飼うようになりました。鯉はこの地域の人々にとっては重要な蛋白源となったわけです。こうして鯉を飼っているうちに、突然変異により緋鯉や色鯉がうまれ、お互いに自慢しあうようになりました。やがて淘汰を重ね、突然変異を利用して雑交させて今日の錦鯉をつくり 出したのです。天明の飢饉の折には、村々の用水池の水が涸れたそうですが、近村の仙竜池に錦鯉を移し、根絶するのをかろうじて免れたという言い伝えもあるそうです。
 

錦鯉の発展

真鯉から突然変異した品種としては、緋鯉、浅黄、鼈甲(べっこう)などがあげられますが、明治に入ると更紗(さらさ)、黄写(きうつり)などの品種が生み出されました。大正3年には東京で開催された大正大博覧会に錦鯉27匹が出品され、広く知ら れるようになりました。これをきっかけとして山村の一娯楽にすぎなかった錦鯉の養殖が全国的に知られるようになり、生産地の経済を潤しました。大正時代には大正三色(さんけ)、白写(しろうつり)、黄写(きうつり)、白鼈甲(しろべっこう)など、今日の錦鯉の主流となる品種を固定し、昭和においては、昭和三色(さんけ)、各種銀鱗(ぎんりん)、金鱗(きんりん)を開発し、日本のみならず、全世界に愛好家を持つようになりました。
 

第二次世界大戦

戦時中にも錦鯉の危機がありました。軍の手がこの地域に回ると、まず睨まれたのが錦鯉でした。戦時中はきらびやかなものはぜいたく品として一切ご法度であったそうです。加えて食料難ですから、錦鯉といえども大きな食料資源とみなされたわけです。直ちに軍に差し出せよという命令が発せられました。千年の歴史を持つ錦鯉が途絶えては一大事と、養殖関係者は対策を考えた挙句、ある日の夜、種鯉をこっそり近くにある深い沼に放ちました。こうした命がけの行動があって、今でも錦鯉は途絶えることなく隆盛を極めています。
 

中越地震

2004年10月23日に発生した震度6強の中越地震は、不幸にも山古志村(現在は長岡市)の名を全国に広める結果となってしまいました。災害で亡くなられた方や、無残にも崩れ去った住居、亀裂が入り隆起した道路など、その惨状は次々とテレビなどで報道されました。MCF Japan メンバーの山羊ちゃんも、当時ガスの復旧工事部隊として新潟県に出動したのを思い出します。また錦鯉も地震の被害を受け、養鯉池のようすも度々報道されました。2005年現在、新潟県内ではまだまだ復興していない地域が多数あるそうです。かつてのように美しい山々に囲まれ、錦鯉が悠然と泳ぐ山古志の風景が一日も早く戻ってくることを心からお祈りします。

参考文献
1)「コイの釣り方」 芳賀故城 金園社
2)「川の魚」 末広恭雄 ベースボールマガジン社
3)「魚の風土」 末広恭雄 新潮社

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