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文芸・故事・伝説 / 夢応の鯉魚

江戸時代の代表的な読本のひとつに「雨月物語(うげつものがたり)」が挙げられます。上田秋成(うえだあきなり)が1776年に刊行した作品で、怪異小説9篇が記されています。その中に、「夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)」という作品がありますので紹介します。
 
延長時代(923~931年)のお話です。大津の三井寺に興義(こうぎ)という僧侶がおりました。興義は絵の名手でしたが一般的な画題を選ばず、書く絵は魚ばかりでした。寝ても覚めても魚のことばかり考えて、時には夢で見た鯉を描いて壁に貼り、これを自ら「夢応の鯉魚」と呼びました。
 
ある年、興義は病気にかかり、七日間わずらった後に息が途絶えました。弟子たちが嘆き悲しんでいると、興義の心臓のあたりがかすかに暖かいことに気付きました。これはもしかしたらまだ生き返るかもしれないと思い、周りにすわって見守り続けたところ、3日過ぎたころ興義は夢から覚めたように起き上がりました。
 
生き返った興義は次のように語りました。この頃病気に苦しみ、辛さのあまりに自分が死んだのも知らないで、暑苦しい気分を冷ますために出かけました。やがて水辺に着いたところで深みに飛び込むと、冠と装束をつけた人が大魚にまたがって現れ、興義に金鯉の服を授けました。これを着てみると、なんと興義は一匹の鯉に変身したのです。
 
興義は琵琶湖を自由に泳ぎ回って遊んでいるうちに、とてもお腹がすいて食べ物が欲しくなりました。やがて漁師が釣り糸を垂れているのをみつけましたが、どうしようかと暫く考えました。しかし餌がとてもおいしそうだったのでついに我慢できなくなり、その餌を飲み込んでしまいました。とたんに興義は漁師に釣り上げられ、籠に入れられて自分の寺の檀家(だんか)である助の殿の館に連れて行かれました。
 
さっそく料理人が出てきて興義をまな板にのせ、左手で両目を押さえ、右手に研ぎすました包丁を持って今にも切りそうになりました。興義が苦しさのあまり大声を上げて泣き叫び、ついに切られると思った瞬間に目が覚めたのです。これは現代でいうところの臨死体験といえるでしょう。
 

出典)新潮日本古典集成「雨月物語 癇癖談」浅野三平:校注 新潮社 p64-65

 
この話を聞いた弟子たちが助の殿に確認しに行ったところ、確かに漁師が3尺ほどの鯉を持ってきたので料理したと言いました。興義はまな板の上で大声を上げたといっていましたが、料理人には鯉がただ口をパクパクさせていただけと見えたのでした。
 
あまりに不思議な話を目の当たりにしたので、助の殿の館では、残っていたその鯉の料理をすぐに湖に捨てました。
 
こうして興義は病気から回復し、後年まで天寿を全うしました。臨終の際、それまで描いた鯉魚の絵を数枚取り出して湖に散らしたところ、魚が抜け出して水中を泳いだと伝えられています。その後、弟子の成光(なりみつ)が興義の絵の技法を伝承し、みごとな鶏の絵を襖に描いたそうです(閑院の御殿の襖)。
 

参考文献
1)新潮日本古典集成 「雨月物語 癇癖談」 浅野三平:校注 新潮社
2)現代教養文庫 「雨月物語・春雨物語」 訳者:神保五彌、棚橋正博 社会思想社
3)「釣魚をめぐる博物誌」 長辻象平 角川書店

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