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鯉の産業 / 日本の養鯉
日本には古来から鯉が生息していましたが、本格的な養鯉技術は、聖徳太子の頃に中国から渡来したものと考えられます。遣唐使により、養蚕と結びついた養鯉技術が持ち帰られたようです。以来昭和に入るまで、サナギをエサとした鯉の単養は日本各地で行われていました。
 
この養魚技術は、やがて小面積で多大な生産量をあげるための、魚粉をエサとした日本独自の集約養魚に変化し、さらには魚に魚を食わすハマチ養殖へと発展していきました。
 
養鯉に話を戻します。戦後の日本におきましては、霞ヶ浦は日本を代表する鯉の生産地となりました。1964年に霞ヶ浦、北浦に導入された養鯉方法は、小割式いけす法と呼ばれるものです。これは 四角形の網いけすを、湖底に打ち込んだ支柱に吊るす形で取り付けて水中に漬けています。いけすはあまり間隔を空けずに列状に湖に配置され、各いけすの上には自動給餌機が備えられています。
 
また、湖辺各地では池中養鯉も行われました。これは、網いけす養鯉業者向けの種苗を生産する目的で行っていたものです。
 
2003年秋、衝撃的なニュースが日本を駆け抜けました。霞ヶ浦の養鯉いけすで鯉の大量死が発生したのです。原因はKHV(コイ・ヘルペス・ウイルス)でした。数年前に海外で発生した鯉固有の病気が、何らかのルートで国内に伝染したもようです。その後このKHVは日本全国に広がり、鯉産業に多大な被害を与えました。
 
現在では沈静化したようですが、霞ヶ浦、北浦では養鯉は廃業したままで、いけすは空になっています。養鯉再開のために一部ではKHVに耐性をもつ個体が試験的に養飼育されていると聞きますが、2005年現在まだ再開の目処は立っていないようです。
 

北浦の小割式いけす(2005年9月撮影)


 

参考文献
1)「魚の社会学」加福竹一郎 共立出版
2)「湖辺の風土と人間 霞ヶ浦」松浦茂樹 石崎正和 矢倉弘史 そしえて

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