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永遠の本棚 / 第1竿: 幸田露伴「江戸前釣りの世界」 

考証 游魚の説 より抜粋

魚を釣る人には、二つのタイプがある。その一つは利益のためにする人。もう一つは娯楽のためにする人である。 (中略)
遊戯娯楽は、単に遊戯娯楽にとどまるものではない。それはその人の身体を鍛錬し心神を和やかにし、自然とその人の本来の職業に対する気力を鼓舞し奮い立たせ、意識を旺盛増進させる。そうすることによって仕事上の行き詰まり払拭し、生き生きした感じを取り戻させる。それで初めて遊戯娯楽の主旨に合い、絶妙な役割を果たしたといえるだろう。そうでなければ、遊戯娯楽はすぐに堕落の坂道になってしまうだけである。遊漁者が魚を釣るのも、魚を獲るために魚を釣ることに相違ないけれども、単に魚を獲るために釣るのではない。実は心を楽しませるのに魚を釣るのである。釣魚の遊戯を借りて心をたのしませようとするのだ。魚を釣るのは手段である。目的ではない。遊漁者は常にこの点を自分の立脚の地と考え、思い違いのないようにするのが肝要である。
遊漁者は心を楽しませるために釣るのである。したがって、不快な感じを招くようなことは、すべて避けるのが知恵というものだ。

私は家庭生活、仕事、そして趣味娯楽の3つのバランスが取れてはじめて充実した生活を送ることができると考えています。そのどれか一つに極端に偏った生活を長期に渡り継続することは、健全な生活を損ねることになりかねないと思います。特に近年ますます競争が激化する社会におきましては、時として強烈なストレスに向き合って生活しなければなりません。それ故に自分らしさを取り戻す時間を持つことは、特に大切にする必要があります。私にとってはそれが釣り場で過ごす時間であり、そして仲間と語り合う時間です。「遊漁者は心を楽しませるために釣るのである」の一言は私の心に強く響く言葉となっています。
 

他に対するすべてを寛大にすべきで、きつく厳しくしてはならない。寛大は不愉快を愉快とする性質で、きつく厳しいのは愉快を変じて不愉快とする性質のものだからです。とりわけ、釣魚上の自己の偏狭な経験信仰などで、自分と方法の違う他人の行動や思考を酷評したりするのは、遊漁者の陥りやすい過失で、もっとも避けなければならないことである。

釣りのスタイルや釣りそのものに対する考え方、タックルやポイントの選定に至るまですべて自由であるべきものと思います。ただし、法律やモラルに反しない範囲であることは言うまでもありません。自分なりの考えを持つのは大事なことですが、それを他人に押し付けるのはこの上ない不愉快を招くことになります。 この事は私自身も日頃から注意していきたいと考えています。

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