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スウェーデン初のリール

初版 2009.4.26

苦境の中での転機

第二次世界大戦の足音が迫る中、スウェーデン南部スヴァングスタの町で、ひとりの若き技術者が新たな道を模索していました。のちのABU社長、ヨーテ・ボリストレムです。
父でありABU創業者のカール・ボリストレムがこの世を去り、会社は大黒柱を失った直後のこと。主力商品であったタクシーメーターも戦時下では出荷の見通しが立たず、会社は不透明な未来に直面していました。
そんな中、ABUでは木製フレームに収めた装飾時計、いわゆる「アニバーサリー・クロック」を記念品として製造していました。しかしこの分野はドイツの得意分野。ヨーテは、より市場性があり、将来性のある製品への転換を強く意識するようになります。
 

川釣りの思い出が原点に

転機となったのは、彼自身の原体験でした。若い頃、ヨーテは父カールとともに、スヴァングスタを流れるモーラム(Mörrum)川でよく釣りを楽しんでいたのです。釣りは彼にとって、ただの娯楽ではなく、父との大切な時間の象徴でもありました。
 
当時スウェーデンで手に入るキャスティングリールは、すべてアメリカからの輸入品。シェークスピア、サウスベンド、フルーガーといった名だたるブランドが並んでいました。しかし戦争の勃発により、それらの輸入は途絶えてしまったのです。
 
ヨーテはすぐさま過去の輸入実績を調査し、スウェーデン国内での年間輸入数が約5,000台であったことを突き止めました。この数字は、ABUが新たに参入する市場としては十分な規模でした。彼は「これだ!」と確信し、釣具、とりわけリールの製造へと舵を切ったのです。
 

手作りから始まったリール製造

ヨーテはアメリカ製のキャスティングリールを数種類購入し、それぞれの構造や機構を徹底的に研究。その長所を取り入れながら、独自設計によるスウェーデン初のキャスティングリールを完成させました。
 

Record 1600(1941年)
ABU and Garcia - What Happened? p27より引用

 
製造されたのは4機種──Record 1500、1600、1700、1800で、それぞれ25台、合計100台が完全ハンドメイドで作られました。当時はまだ、リール専用の製造設備などなかったのです。
 
基本構造は4機種共通ですが、外装のメッキやブレーキシステムなどに違いがあり、価格帯にも幅を持たせていました。1941年当時の価格は、最廉価モデルのRecord 1500が2ドル以下、最上級モデルのRecord 1800でも5ドル前後。庶民にも手が届く価格設定でした。
 
なお「Record(レコルド)」という商品名は、かつてABUが販売していたタクシーメーターのブランド名を引き継いだものです。これは、創業者カールへの敬意と、会社の歩みを忘れないというヨーテの想いの表れでもあります。
 

高い完成度の背景にあった技術力

初期モデルのひとつRecord 1600(1941年製)を見れば、その基本構造が現代のリールとほとんど変わらないことに気づかされます。当時のアメリカ製最高峰のリールと比べても、決して劣らぬ完成度を誇っていたのです。これを支えていたのは、ABUがタクシーメーターやアニバーサリー・クロック製造で培ってきた技術力。特に精密ギヤの切削技術やメッキ処理のノウハウは、時計製造の分野で磨かれていたものでした。
 
さらに、ヨーテ自身が週末ごとにモーラム川のデルタ地帯でパイク釣りに興じ、自ら設計したリールの実地テストを重ねていたことも、信頼性と耐久性の裏付けとなっていました。
 

販路拡大の始まり

リールが完成すると、ヨーテはスウェーデン国内の釣具卸業者をひとつずつ訪ねて歩き、「Record」リールのデモンストレーションを実施しました。その結果、年間5,000台の市場が確実に存在することを実感します。
 
最初に契約を結んだのはベルグハウス(Berghaus)商会。初回発注は3,000台、ただしブランド名は「Pebeco(ペベコ)」として販売されることとなりました。さらに、売れ行き次第で2,000台の追加発注という条件も含まれていました。
 
続いて商談を持ちかけたのはデンニングホフ(Denninghof)商会。生産能力について問われた際、ヨーテは即座に「年間15,000台」と回答します。これは実際の生産能力を大きく上回る数字でしたが、すでにベルグハウスとの契約で5,000台を抱えていたことを思えば、さらなる増産が必要であるのは明らかでした。
最終的に、デンニングホフとは3年間の独占契約を締結。10,000台の発注と前渡金を受け取り、この資金をもとにABUはリール専用の製造設備を整え、生産体制を一気に強化していきました。


 
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