自在鉤
《要約》
- 囲炉裏は暖房や調理に加え、人々の交流や安らぎの場として、日本の伝統家屋で重要な役割を果たしていた。
- 自在鉤は火加減を調整するための生活の知恵として江戸時代から使われ、機能的な工夫が凝らされている。
- 自在鉤の横木「小猿」には鯉や鯛など魚の意匠が多く見られ、水に通じることから火除けの意味があるとされる。
- 魚形の小猿には、美意識や信仰を反映した日本人の暮らしの知恵と文化が宿っている。
囲炉裏という暮らしの中心
日本の伝統家屋において、囲炉裏(いろり)は単なる暖房や調理の道具にとどまらず、暮らしの中心的な存在として重要な意味を持っておりました。火を囲んで煮炊きをし、寒さをしのぎ、茅葺屋根の防虫や照明の役割を果たす一方で、人々の心を和ませる象徴的な役割も担っていました。家族が団らんのひとときを囲炉裏のまわりで過ごし、来客をもてなす場としても、囲炉裏は日本人の暮らしに深く根ざしていたのです。
遠い記憶のなかの囲炉裏
幼い頃、母の実家に遊びに行った際のことが、今も心に残っています。茅葺屋根の古い農家で、築百年を超えていたと伯父が話していたのを思い出します。囲炉裏を囲んで座る位置にも決まりがあり、主人は「横座」と呼ばれる上座に、その隣には台所に近い主婦の席、そして来客や年少者は玄関に近い「客座」に座るのが常でした。私はいつも父と並んで客座に腰を下ろしていました。伯父はゆったりと煙草をくゆらせながら時折薪をくべ、伯母は忙しく動き回って料理の支度をしていた姿が懐かしく思い出されます。
囲炉裏を支える知恵 ― 自在鉤の工夫
出典)「日本の家」中川武 TOTO 出版 p107
囲炉裏で鍋や鉄瓶を吊るすために用いられる「自在鉤(じざいかぎ)」は、江戸時代より使われてきた生活の知恵です。火力そのものを変えるより、鍋の位置を上下に動かして加減を調整する方が理にかなっており、道具の大きさに応じて高さを調節できる仕組みは、まさに民の工夫の結晶といえるでしょう。
囲炉裏の上には「火棚(ひだな)」と呼ばれる木の枠が吊るされており、濡れた衣類を乾かすほか、火の粉が高く舞うのを防ぐ役割も果たしています。その下に吊るされた自在鉤には、鉤の高さを調節する横木がついており、これを「小猿(こざる)」と呼びます。
魚の形をした小猿 ― 鯉に込められた意味
この小猿には、さまざまな形の意匠が見られますが、なかでも代表的なのが鯉や鯛の彫刻です。写真に写る小猿も、鯉の姿をした見事なものです。鯉は淡水魚の王、鯛は海水魚の王として並び称される存在であり、そうした象徴性もあって用いられたのでしょう。
鯉の小猿(横手市ふるさと村にて撮影)
また、小猿の横長の形状が魚に似ており、魚が「水」を連想させることから、火を扱う囲炉裏に対する「火除け」の願いが込められていたとも考えられます。もっとも、こうした由来については諸説あり、確かなことは分かりません。それでも、この魚形の小猿には、日本人の生活と信仰、そして美意識が映し出されているように思えてなりません。
《参考文献》
1)「日本の家」 中川武 TOTO出版