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釣りの研究室
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登龍門

初版 2005.11.27

《要約》

  • 「登龍門」は出世や成功の象徴であり、中国の後漢時代、清廉な官僚・李膺のもとに出入りできる者を「龍門に登った」と称したことに由来する。
  • その語源は「魚が龍門の滝を登れば龍になる」という『三秦記』の故事だが、原文には「鯉」とは書かれておらず、後世に解釈が加えられた。
  • 鯉の滝登りは現実には起こらないが、縁起物や文化表現として広まり、芸術にも影響を与えた。
  • 李膺らが宦官の弾圧を受けた「党錮の禁」事件は、登竜門の背景にある歴史的事実として注目される。

「登龍門(とうりゅうもん)」という言葉は、よく耳にされることと思います。言うまでもなく、出世や成功への関門という意味で使われております。実はこの言葉、中国の歴史書『後漢書』の記述に由来しているのです。今回は、その一節を引用しながら、言葉の由来と背景について少しご紹介してみたいと思います。
 

後漢書に見える「登龍門」

後漢書 党錮伝 李膺(りよう) 参考文献1)訳より


当時、朝廷は日に乱れ、綱紀は弛みきった。そのなかで李膺だけは気節を守り、自らの名誉を落とすまいとした。士で、李膺のところに出入りがかなう者があると、「 龍門に登った」といわれたものである(龍門は黄河上流の滝、魚がこれを登り得れば竜になる)。


 

時代背景と李膺という人物

中国、後漢王朝の第11代皇帝・桓帝(かんてい)[在位147年-167年]の時代、政治は乱れ、君主は暗愚、実権は宦官(かんがん)に握られておりました。国家の命運さえ宦官に委ねられる有様でした。
 
このような状況にあって、士(卿・大夫に次ぐ階級の知識人)や学生たちのあいだで政治への批判が次第に高まっていきます。そんな中、度遼将軍として辺境の平定を任された李膺(りよう)は、気骨のある人物として、士人や学生たちの尊敬を集めました。彼の人格と行動は、「天下の手本は李元礼(李膺の字)」とまで称されたほどです。
その李膺のもとに出入りできる士がいれば、「龍門に登った」と称されたわけですが、これは単なる誉め言葉ではなく、ある故事に由来しているのです。
 

龍門と「登龍門」の起源

「登龍門」の語源は、黄河上流にある「龍門」と呼ばれる滝を魚が登ると龍になる、という『三秦記』に伝わる故事に由来します。
つまり、李膺のところに出入りできた者は、それほどの人物であるという、いわば「登龍門をくぐった者」として認められたという意味になるのです。
 

しかし「鯉」とは書かれていない?

ここで、少し面白いことに気づかされます。じつは『後漢書』の記述にも『三秦記』の故事にも、「鯉」という魚の名は一言も出てこないのです。念のため原文を確認してみましたが、「大魚」とは書いてあるものの、「鯉」とは書かれておりません。
いったい、どこで「鯉」にすり替わったのか……定かではありませんが、いつの頃からか、「登龍門」は出世や成功の象徴となり、「鯉の滝登り」は縁起物として描かれるようになったのです。
 
釣り仲間や知人に「鯉釣りが趣味なんです」と話すと、よく「鯉ってほんとに滝を登るの?」と真顔で聞かれることがあります。もちろん実際にはあり得ないことで、鯉師の皆様ならよくご存じのはずです。あくまでも縁起物として語り継がれ、やがて芸術や文化にも大きな影響を与えるようになったのですね。
 

登龍門から「党錮の禁」へ

さて、少し余談になりますが、「龍門に登った」と称されたこの話には、実は続きがあります。そしてそれは、中国史上の大事件へとつながっていきます。
 
「党錮の禁(とうこのきん)」という事件をお聞きになったことがあるかもしれません。私も、高校時代の世界史の授業で習ったというかすかな記憶があります。
この事件は、李膺をはじめとする士人や学生たちが、宦官によって一斉に投獄されたというものです(166年)。名目は、李膺らが徒党を組んで朝廷を誹謗し、世情を乱したということでしたが、実際には、宦官たちが自分たちの不正を暴かれるのを恐れたためといわれています。
その後、宦官への反発がさらに広がると、169年には宦官による大規模な弾圧が始まり、李膺を含む百人以上が処刑、さらに数百人が禁錮刑に処されました。これが「党錮の禁」と呼ばれる弾圧事件です。
何とも皮肉な話ですが、のちに出世や成功の象徴とされる「登龍門」が、時の権力者による弾圧と処刑の引き金になっていた、というわけです。
 


参考文献
1)「中国古典文学大系13 漢書・後漢書・三国志列伝選」 本田済編訳 平凡社