Laboratory

釣りの研究室
HOME | Lab | Carp | 日本書紀

日本書紀

初版 2005.11.27

《要約》

  • 『古事記』と『日本書紀』は日本の古代史の重要な資料であり、鯉に関する最古の記述は『日本書紀』に景行天皇の説話として現れる。
  • 景行天皇は美濃で弟姫を妃に迎えようとし、池に鯉を放って姫の関心を引き、それをきっかけに姉・八坂入媛を妃に迎えることとなった。
  • 景行天皇は亡き子・日本武尊を偲び、茨城県稲敷市浮島にある張宮に三十余日滞在したと伝えられている。

「古事記」と「日本書紀」は日本の古代史の重要な資料です。さらに鯉の記述として最も古いものは「日本書紀」であるとされていますのでご紹介します。
 

古事記について

『古事記』と『日本書紀』は、日本の古代史を語るうえで、まるで双子のように並び称される存在です。まずは、その『古事記』について簡単にご紹介いたします。

『古事記』は、第43代・元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて撰録させ、712年に完成したものです。それ以前には、稗田阿礼(ひえだのあれ)が第40代・天武天皇の勅命により暗誦していた旧辞・帝紀がありましたが、誤りが多かったため、これを訂正し、文章として記したのが『古事記』です。

同書には、「因幡の白兎」「八俣の大蛇(やまたのおろち)」「海幸彦と山幸彦」など、昔話として親しまれてきた神話や伝承が収録されています。また、初代・神武天皇(前660年〜前585年)から第33代・推古天皇(592年〜628年)に至るまでの天皇にまつわる話も記述されています。
 

日本書紀について

一方の『日本書紀』は、現存する中で日本最古の歴史書とされています。第40代・天武天皇(673年〜686年)が、川島皇子(かわしまのみこ)や舎人皇子(とねりのみこ)ら12名に命じて編纂させ、720年に完成しました。
『古事記』と同様に旧辞・帝紀を基にしているため、両者には類似する記述も見られますが、『日本書紀』はより正史的な性格を持ち、神話・伝承よりも歴史的事実の記述が中心となっています。天皇の記録も、初代・神武天皇から第41代・持統天皇(686年〜697年)までが記されており、『古事記』よりも広範にわたっています。
 

景行天皇と鯉

『日本書紀』の中で、鯉にまつわる記述が現れるのは、景行天皇の段です。以下に、その一節を引用いたします(『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟・講談社・p152 巻第七より)。


4年(西暦74年)春2月11日、天皇は美濃(みの)においでになった。お側の者がいうのに、「この国に美人がいます。弟姫(おとひめ)といい、容姿端麗で八坂入彦皇子(やさかいりびこのみこ)の女です」と。天皇は自分の妃としたいと思い、弟姫の家に行かれた。弟姫は天皇が来られたときいて、竹林に隠れた。天皇は弟姫を引き出そうと計られて、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉を池に放って、朝夕ご覧になって遊ばれた。あるとき弟姫はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、こっそりとやってきて池を見られた。天皇はそれを引きとめて召された。弟姫が考えるのに、夫婦の道は古も今も同じである。しかしああかこうかと問い質すこともできずに困る。そこで天皇にお願いして、「私の性質は交接のことを望みません。今恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ私の姉が八坂入媛(やさかのいりびめ)といい、顔も良く志も貞潔です。どうぞ後宮に召しいれて下さい」といわれた。天皇は聞きいれられ、八坂入媛をよんで妃とされた。媛は七男六女を生んだ。


景行天皇と茨城県稲敷市浮島

巨鯉の名所として知られる霞ヶ浦。その和田岬からほど近い場所に、「景行天皇行在所(張宮)遺跡」があります。は霞ヶ浦釣行の帰途、この遺跡を訪ねてみましたので、ここでご紹介いたします。
 
現在は道路脇に小さな案内看板が立っているだけで、人通りも少なく、ひっそりとした佇まいです。遺跡は道路から数十メートル奥まった場所にあり、稲敷市教育委員会による説明看板が設置されています。以下、その内容を要約しつつ、なりに補足を加えてご紹介いたします。
 
景行天皇が、自らの子である日本武尊(やまとたけるのみこと)に東夷征討を命じたことは、よく知られています。その使命を果たした日本武尊は、帰路の途中、伊勢の能褒野(のぼの/現在の鈴鹿郡)で病に倒れ、亡くなりました。
その訃報を聞いた天皇は、深い悲しみに包まれ、日本武尊を追慕するあまり、その征途をたどる旅に出られたと伝えられています。その途中、この浮島の地に張宮を営み、三十余日滞在されたとされています。この丘が張宮の跡とされ、地名も「お伊勢の台」として今に伝わっております。
 

景行天皇行在所(張宮)遺跡の看板

 

行在所遺跡の様子

看板を左手に見ながら、数十段の細い石段を登っていくと、木々がこんもりと生い茂る場所へと至ります。その先の小道沿いに、「景行天皇行在所遺跡」の石碑が、木立に包まれるようにして立っています。
およそ二千年前、この小高い丘に滞在された天皇は、どのようなお気持ちで一か月を過ごされたのでしょうか。80人もの子をもうけた天皇ですが、日本武尊の死は、特に大きな痛みだったことでしょう。その悲しみは、『日本書紀』の記述からも感じ取ることができます。
 

看板を左手に見ながら石段を登っていきます

 

古事記に見る日本武尊の苦悩

一方、『古事記』では、日本武尊が東夷征討を命じられた際の苦悩が描かれています。
「天皇は、まったく私が死んでしまえばよいとお考えなのでしょうか。どうして、西方の賊を討って戻って間もないのに、今度は東国十二ヵ国の悪者どもの討伐に行けと仰せになるのでしょう。これでは、私など死ねばよいとお思いなのだと考えるしかありません。」
この記述を読むと、「親の心子知らず」という言葉が頭をよぎります。あるいは、粗野な性格であったとされる日本武尊を、天皇が危険視し、遠ざけたかったという見方もあるかもしれません。いずれにしても、真相は今となっては知る由もありません。
 
二千年の時を越えて、景行天皇とその行在所遺跡が、こうして「鯉」を通じて語られることになるとは、不思議な巡り合わせです。ひとつのことを深く探っていくと、思いがけない歴史とつながる瞬間がある――それもまた、趣味の醍醐味といえるでしょう。
 

石段の上に生い茂る木

 

景行天皇行在所遺跡石碑

 


参考文献
1)『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 講談社
2)『日本書紀 上』 井上 光貞(監訳) 中央公論社
3)『古事記(上)(中) 全訳注』 次田 真幸 講談社