「敗北の美学」という話
利根川本流では今年もアオウオのシーズンが始まりました。霞ヶ浦は少し遅れて魚が動き出しますが、この時期になると水の気配が変わり、こちらの気持ちも自然と釣り場へ向かいます。今年はどんな魚に出会えるだろうか。そう思うだけで、胸の奥に小さな火が灯ります。
少し前、あるきっかけでAIがMCFのことを語る場面に遭遇しました。AIはもちろん私がMCFの運営者だとは知りません。淡々とした分析の中で、タイトルとして「モンスターとの対峙に見る敗北の美学」があり、その説明文では「このサイトは、釣れた喜びよりも、獲れなかった体験を丁寧に書いている」と指摘されていました。なるほど、そういう見方もあるのか、と少し考えさせられました。
美学などという大げさな思いはありません。ただ振り返れば、私は釣れなかった記事を数多く書いてきました。釣果よりも、その場で感じた重みや、届かなかった一瞬のことを残してきたように思います。
霞ヶ浦の朝 2025年4月撮影
獲れなかった体験は数多くあります。その中でも、特に忘れられないラインブレイクがあります。
今まで感じたことのない重量感。ロッドが深く絞り込まれ、巨大な魚がゆっくりと底を這うように動きます。間違いなくアオウオ。慎重にいなし、主導権を渡さないように耐えます。ところが次の瞬間、魚は不意に手前へ突進。手前は護岸です。とっさに竿の向きを変え、ラインを壁から離そうとしました。しかし、ほんのわずか遅れました。ラインが護岸に触れた瞬間、手元がふっと軽くなりました。一瞬、頭の中が真っ白になります。まるで糸の切り方を知っていたかのような動き。こちらの予想をあっさりと超え、思わず息を呑みました。姿を見ることはできませんでした。それでも、あの重量感だけは確かです。
姿を見ないまま終わった魚ほど、なぜか心に残ります。あの突進は計算だったのか。あの重みは、これまでとは次元が違ったのではないか。釣りを続けていれば、誰にもそんな一匹がいるはずです。獲れなかったからこそ、記憶の中で少しずつ輪郭が濃くなる。思い出すたびに胸がざわつく。きっとみなさまにも、忘れられない一匹がいるのではないでしょうか。
釣れなかった夜や、魚からの反応がない時間も、私にとっては忘れがたい経験です。何日も反応がないことは珍しくありません。
車中泊のシュラフに入って目を閉じると、自分は何をしているのだろうと思うこともあります。夜が深まり、波が護岸を洗う音だけが響くころ、心はゆっくりと静まっていきます。わずかに開けた窓から入る風や水の匂いが、内と外の境目を曖昧にしていきます。ただ水辺に身を置く存在になっていく、そんな時間です。
やがて静けさを裂くように、リールのドラグがギーッと鳴り、胸の奥が一瞬で熱くなります。アラームも鳴り響きます。自然に溶け込んでいた自分は、一気に“釣り人”へと引き戻されます。ラインの角度を見て、障害物を思い浮かべ、どうやって獲るかを必死に考える。あの切り替わりは、何年経っても慣れるものではありません。
それでも結果は、いつも思い通りになるわけではありません。釣れない夜には寂しさがあります。しかし虚しさはありません。自然の中に身を置き、夜をただ水辺で過ごせた。そのことだけで、十分だと思える朝もあります。夜明けの水面を眺めていると、またここへ来ようと思えるのです。
もし本当に「敗北の美学」というものがあるのなら、それは負けを飾ることではなく、自然の大きさを受け入れることなのかもしれません。自分の力ではどうにもならない存在が、この水の底を悠然と泳いでいる。その事実があるからこそ、私はまた竿を出します。
今年もまた、あの重みとの再会を願って釣り場に立ちます。獲れるかどうかはわかりません。その存在を思うだけで、静かな期待と昂ぶりが胸の奥を満たします。それこそが私にとっての「敗北の美学」という話なのです。